日本各地を旅する男のブログ
 

旅する男たくまの旅の記録

現在地は、すでに訪れ た土地は、全ての 予定を完了した土地をで示していきます。

海外から被災地へのメッセージ

遠く離れたヨーロッパでも、東北・関東を応援する声があります。

「フランス人からのメッセージ」
http://terre-ciel.jugem.jp/?eid=80

「欧州から呼びかける日本代表達」
http://terre-ciel.jugem.jp/?day=20110315


どちらもの記事も、在仏日本人takezoさんのブログ「スピリチュアルだがマテリアルな日々」のものです。

【2011.03.16 Wednesday 00:49】 author : たくま
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海外から被災地へのメッセージ

遠く離れたヨーロッパでも、関東・東北を応援する声があります。

「フランス人からのメッセージ」
http://terre-ciel.jugem.jp/?eid=80

「欧州から呼びかける日本代表達」
http://terre-ciel.jugem.jp/?day=20110315


どちらもの記事も、在仏日本人takezoさんのブログ「スピリチュアルだがマテリアルな日々」のものです。

【2011.03.16 Wednesday 00:49】 author : たくま
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現代日本人は薄情?
 

100歳を越える老人で行方知れずの方が結構いらっしゃるようですね。
こんな状況を想像もしたことなかったので、ちょっとびっくりしています。

それにしても、ニュースをみるにつけ毎回耳に入るこの言葉。

「日本人は薄情になった」

そうなの〜?

「現代日本人薄情論」(←勝手に命名)は、老人行方不明事件の前から
ずっと言われてきていることですが、
私が全国各地の寺社史跡をめぐる旅をした感想は、

「どこの地域に行っても暖かい人はたくさんいるもんだ」

でしたけどね。本当に。
田舎はもちろん、東京のような都会でも、ずいぶんいろんな人に助けられました。


中でも一番びっくりしたのは、京都市の南西のはずれに鎮座する大原野神社を訪れたときです。


20060912_131709.jpg
【京都府 大原野神社 784年長岡に創建、850年現在地に遷座】


その日は雨模様で、私は濡れながら参拝していたのですが、
地元の方らしいおばさまが、すれ違いざまに

「傘を差し上げましょうか?」

とおっしゃるではないですか。
そして、私が答えるまもなく、おばさまは自分の傘をたたんで私に渡そうとするのです。

わたしゃぁ、この方は大原野神社の神様じゃないかと思いましたよ。いやほんと。
「たくまの旅日記:大原野神社 人心の荒廃を嘆いていい人」参照)


20060912_131711.jpg
【一本しかない傘を見知らぬ人間に差し出そうとしてくれた神様のようなおばさま】


私、このおばさまに出会って感じました。
日本人は薄情になったと思っていたけども、その前に、
自分はこのおばさまのように人に情けをかけているのだろうか?

答えはもちろん否。
私には日本人の心の荒廃を嘆く権利はありませんでした。
きっと今でも。


ところで、話を戻しますが、日本人、まだまだ全然いけてますよ。
フランス辺りに在住している日本人であれば、きっと私と同じように考えるはず(笑)

ですから、あまり不信感をつのらせるような発言を電波で流さないで欲しいと思います。



さて、それでもなお、「現代日本人薄情論」が流布するのには当然理由があるはずで、
その主なものとして挙げられるのが、「昔は隣近所で助け合っていた」というもの。

これをちょっと歴史的に考えてみると、昔の近所付き合いが濃かった大きな理由は、
地縁的なつながりが強かったということでしょうね。

江戸時代まで、ほとんどの人が生まれた村で一生を過ごしていました。
村のコミュニティは小さなものなので、どこで誰が何をしていたかなんて、
またたくまに村中に知れわたったと聞きます。
こんな社会ですと、近所との距離感が近くなるのも当然です。

「現代日本人薄情論」は、長い長い時間をかけて培われてきた日本人のコミュニティが、
近年になって崩れてきているということでしょう。


しかし、ちょっと待ってください。
地縁的つながりの強い社会は、本当に純粋に「昔は良かった」といえる様なことばかりなのでしょうか?

はっきり言って、私は嫌です。


狭い土地に縛られた社会は、そこだけのルールや価値観、常識を生み出し、
社会に属するすべての人にそれを押し付けます。
従わぬ者、なじまぬ者は変人のレッテルを貼られ、
「女は村の所有物」といったような偏った考えも、容易に正当化されてしまうのです。
自由もない、権利もない、プライバシーもない。

基本的人権の尊重という点では、今は、昔よりまちがいなく良くなっていると私は思います。


とは言え、たしかに、現代日本の個人主義的な考えが理想的とは思いません。
個の尊重と言いながら、結局、集団心理に身を委ね埋没する中途半端さは否めません。

それでもやはり、何もかも悪くなっている訳では絶対ない。


今求められていることは、「昔は良かった」と懐古主義に浸ることではなく、
現代的な個の尊重と伝統的な集団意識とを
うまく融合していく方向性を求めることではないでしょうか?


何か偉そうにあれこれ語ってしまいましたが、具体的にどうすべきなのか、
私に妙案があるわけではありません。

しかし、私は、私自身の課題として、まずは大原野神社のおばさまのように
スマートで情け深い人間を目指そうと思います。

【2010.08.06 Friday 22:42】 author : たくま
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風化する戦争の記憶
私は今、浦添市の前田・経塚近世墓群という遺跡の発掘に参加しています。
浦添近辺は沖縄戦の中でも有数の激戦地区で、終戦から64年を経た今も、多量の不発弾、ガスマスク、薬瓶、遺骨等々が出土してきます。

先日も、壕跡と思われる遺構の中から日本兵三名の遺骨がまとまって発見され、沖縄の地方新聞に紹介されました。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-150076-storytopic-1.html (琉球新報)


新聞社へ取材を依頼したのは私たちです。
しかし、そこには大きな葛藤がありました。


遺骨をさらしものにしても良いのだろうか?


迷った末、「戦争の記憶が失われないよう」という、もっともらしい理由の元、彼らに「平和」の犠牲を強いることになりました。
それが正しいことだったのかどうか、私にはいまだに分かりません。


私の心配とは裏腹に、遺骨の公表はなかなかの反響でした。
問題意識の高い人々が、直接現場を訪れ、手を合わせて行かれました。

しかし、中には、こんな驚くべきことを口にする人達もいたのです。


おじさん「あなた達はこの遺骨をこれからどうする訳?」

たくま「調査しながら取り上げた後、県の援護課に引き継ぐことになっています。」

お「取り上げる訳?保存はしないの?」

た「いえ・・・骨の状態も良くないですし、早く取り上げてあげようと思っていますが・・・」

お「状態が良くないなら、レプリカを作るとか、薬品で固めて保存するとかできるだろう。」

た「・・・その予定はないです・・・」

お「こんな凄いものを平和教育に生かさないのか!?」

た「・・・と、言われましても・・・」

お「(こいつじゃ話にならんといった様子で) 後で(たくまの上司に抗議の)電話をしよう。」



あなたは、自分の親族が固められ、さらしものになって平気なんですか?



何か、「平和」という概念だけが一人走りしている気がするのは私だけでしょうか?
目の前の遺骨に個を見ない、その遺族を想わない、
そんな口先だけの「平和」が、一体何を生み出すのでしょう?


終戦から64年を経た今、戦争に対するリアリティは、
ココ沖縄でさえ、これほどもまでに薄れてきているのか・・・
【2009.10.09 Friday 01:08】 author : たくま
| 沖縄 | comments(0) | trackbacks(0) |
肝高ではない阿麻和利
最近、沖縄では、現代版組踊「肝高の阿麻和利」というミュージカルが話題になっています。

勝連地域の中高生が、世界遺産に指定された勝連グスクの城主、阿麻和利(あまわり)の半生を演じるもので、一種の地域おこしとして始まったそうです。
今では、沖縄県内に留まらず、海外公演を行うほど意欲的に活動をされているようです。
今後の活躍がますます楽しみですね。


ところで、同ミュージカルが有名になるにつけ、少々心配になっていることがあります。
それは、「肝高の阿麻和利」というタイトルの、
「肝高(きむたか)」の解釈についてです。

試しに「肝高」をネット検索してみると、

・沖縄の言葉で「志高き生き方」という意味

・「志しが高い」というこの島の古い言葉

・沖縄の古語で「心豊かで気高い」という意味

・沖縄最古の歌謡集「おもろそうし」にもしばしば見られる古語で「心豊か」「気高い」「品位ある」などを意味する。

などなど。

これらの説明、間違ってはいないんですが、
これだけだと正解とも言えないんです。


もしやと不安を抱えつつ、現代版組踊「肝高の阿麻和利」の公式サイトを覗いてみると、

  • 肝高(きむたか)……沖縄最古の歌謡集「おもろさうし」で見られる古語で、「心豊か」「気高い」などを意味し、高い生活文化を称えた勝連および勝連城の美称

  • さすが!
    そうなんです。「肝高」は、『おもろさうし』の中で、阿麻和利を讃える言葉としてではなく、「勝連」の別称として使われているのです。

    『おもろさうし』の中には、確かに、「肝高の阿麻和利」という句があるのですが、これは、必ず「勝連の阿麻和利」と対句になっており、「肝高」なのは「阿麻和利」ではなく「勝連」、「肝高」=「勝連」なんです。
    阿麻和利は、そうした肝高の勝連にふさわしい支配者として賛美されています。

    ここでは詳しい説明は省きますが、「肝高」を「勝連」の別称と取るか「阿麻和利」を賛美する語と取るかは、『おもろさうし』という歌謡集の全体像を、引いては、当時における勝連グスクや阿麻和利の存在意義を考える上で、非常に重要な問題なのです。(と、思っています)


    現代版組踊「肝高の阿麻和利」は、阿麻和利を肝高に描いているという意味合いでのタイトルだと思うので、異議を唱える訳ではないですが、勝連の歴史に誤解が生じないことを切に願う次第です。

    【2009.06.15 Monday 12:36】 author : たくま
    | 沖縄 | comments(3) | trackbacks(0) |
    コンクリート船 武智丸


    このブログが開設されてから、はや3年2ヶ月。
    本更新で、555件めの記事になります。
    ちりも積もればなんとやらですね。
    最近はめったに更新することもありませんが、
    それにも関わらず、毎日多くのアクセスを頂いているようで、
    ほんとうにありがたい限りです。
    旅ネタはまだ尽きていないので、もうしばらくお付き合いいただければ幸いです(^^)


    さて、今日はちょっとかわったものをご紹介します。
    広島県安浦町の港で見られる、武智丸です。
    何がかわっているのかというと、武智丸はなんと、コンクリートで造られた船なのです。

    この船の来歴は戦時中に遡ります。
    船を建造するのがままならない鋼材不足を補うため、
    林邦雄という日本海軍技術中佐が設計したのがコンクリート船でした。
    これが採択され、大阪府土木会社の武智昭次郎によって、
    高砂市の造船所で建造されたのが武智丸です。

    コンクリート製なんて、例え航行可能だったとしても、
    かなりもろかったのではないでしょうか。
    敵に出会えばひとたまりもなかったことでしょう。

    しかし、日本海軍が苦し紛れに設計したこのコンクリート船は4隻建造され、
    なんと南方にも航海したというから驚きです。


    下が武智丸の写真です。


    【武智丸遠景】

    ん?どれが船?

    と一瞬思ってしまいましたが、よくよくみると、
    写真中央に二隻の船が並んでいました。


    【武智丸近景1】


    【武智丸近景2】

    まるで防波堤のごとく並んでいる2隻。
    じつは、現在の武智丸は、本当に防波堤として活用されているのです。
    なんでも、安浦の港には防波堤が無く、台風の度に被害をこうむっていたので、
    昭和22年、大阪に停泊していた武智丸を持ってきてこの場所に沈めたのがはじめだとか。

    波を防がなければならないので、当然沈められ固定されているのですが、
    船の形をはっきりと残しています。


    【武智丸の船首】


    【武智丸の船上】

    外観のみでなく、内部もそれなりに船の様相です。


    【武智丸内部1】


    【武智丸内部2】


    この武智丸は、実はかなりマニアックな遺物らしく、
    防大出身のたくまの親友でさえ
    「コンクリート船の存在なんて初めて聞いた!」
    そうです。

    世にも珍しいコンクリート船、なにかしらの文化財指定でも受けているのかと思ったのですが、
    その管理には広島県竹原土木事務所が関わっているようです。
    完全に防波堤として扱われているということなのでしょうか?

    なんにしろ、今となっては戦時中の日本を知る貴重な資料です。
    大事に保存されるといいですね。

    【2008.10.25 Saturday 00:41】 author : たくま
    | 中国・四国 | comments(3) | trackbacks(0) |
    福山城跡 別世界の隣人

    福山城跡は広島県福山市に所在し、現在のJR福山駅に隣接しています。
    福山城は秀吉の忠臣として名高い福島正則の居城でしたが、福島は幕府によって改易され、
    代わって水野勝成が入封しました。


    【福山城内の水野勝成像】

    水野は、幕府の許可と援助を得て福山城を立派に整備しました。
    二重の堀で囲まれ、五層の天守と三重櫓(やぐら)七棟を備え、各櫓が多聞櫓で結ばれた壮大なその造りは、
    一国一城制以後に建てられた城郭としては破格の規模だったそうです。
    しかし、現在は、内外全ての堀が埋められ、天守を含むほとんどの建造物も失われてしまいました。

    現在、城跡内には外観復元(外からの見た目だけ復元)された天守がその威容を誇っています。


    【復元天守1】

    う〜む。


    【復元天守2】

    見事に、


    【復元天守3】

    復元したものだ。


    しかし、福山城跡一番の見所はこの天守ではありません。
    なんといっても、筋金御門(すじがねごもん)と伏見櫓(ふしみやぐら)でしょう。
    隣接して建つ両者は城内で唯一現在まで生き残っているオリジナルの建築で、
    国の重要文化財に指定されています。


    【筋金御門】


    【伏見櫓】

    これらは、水野勝成が福山城の整備を終えた1622年から現在まで、
    ほとんど姿を変えることなく残っているというのですから驚きです。


    ところで、筋金御門と伏見櫓は、古さ以外にも非常に重要な歴史的価値を有しています。
    それは、両者が、京都の伏見城から移築されたものであるということです。

    伏見城は豊臣秀吉や徳川家康なども深く関わった城として有名で、
    一大拠点として機能していました。
    別名を桃山城といい、よく言う「安土・桃山時代」の「桃山」は伏見城を指しています。
    これほど重要な城だったにも関わらず、伏見城は、1625年に廃城となったため、
    往時の姿を知るのは容易なことではありません。

    そうした状況の中、現存する福山城跡の筋金御門と伏見櫓は、
    当時の伏見城を知るためにも非常に重要な建築なのです。



    さて、たくまがその彼に出会ったのは、筋金御門をくぐり伏見櫓をじっくり堪能し、
    ほくほく顔で城壁沿いの階段から帰路に着こうしたときです。
    細い道路を挟んで隣接する福山駅のホームを、
    なにやらニヤニヤと観察している人がいるではありませんか。



    折りよくホームに電車が入ってきて、それをみつめる彼の顔は喜色満面。

    本物だ!本物の電車マニアだ!
    めっちゃ嬉しそう!

    初めてみるマニアへの衝撃を表に出さぬよう、すまし顔で彼の横を通り抜けるたくま。
    しかし、彼の目には、愛する電車以外のものが映ろうはずもなかった。

    ・・・

    わからん。

    城跡を出て歩きながら考えこむ。

    俺にはわからん。
    人目をはばからず、あれほどまでに好きな物に没頭できるものなのか。

    まるで別世界の住人に思いを馳せているさなか、ふと史跡を巡っている自分の姿が脳裏をよぎる。
    頭の中で再現された、重要文化財を見つめるたくまの顔は・・・

    笑っていた。

    あぅ(--;

    別世界の住人は、隣人だった。


    マニアの側に立ち、にわかにたくまの胸に怒りがこみ上げてくる。

    笑顔で史跡(公園)を巡っているだけなのに、
    誰にも迷惑かけていないのに、
    冷たい目でみられたり、子供に逃げられたり、外人に取り囲まれたり、(過去記事参照)

    お前ら!マニアをなんだと思ってんだ!
    マニアだって人間だぞ!生きているんだ!!

    福山城跡で、電車マニアとの友情を(勝手に)育んだたくま。
    彼よりも自分の方が怪しいという可能性は微塵も考えないのであった。

    【2008.10.08 Wednesday 18:31】 author : たくま
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    松陰神社 祀られる幕末の偉人


    「幕末に活躍した人物で、誰が好きですか?」

    このように質問したとき、長州の偉人、吉田松陰をあげる人も多いでしょう。
    本日紹介するのは、その松陰が祀られる山口県萩市の松陰神社です。


    【松陰神社鳥居】

    たくまが松陰神社を詣でたときは折り悪く雨天。
    しかし、その雨が打ち水のように辺りを湿らし、清潔な境内がかえって美しく映えていました。


    【松陰神社境内】


    さて、吉田松陰は、山口県萩市、かつての長州藩に生まれた思想家です。
    彼の思想の特徴は、天皇を中心とした国家体制を理想とするものであり、
    当時の幕藩体制を否定する過激なものでした。
    幕府に目を付けられた松陰は、安政6年(1859年)、危険分子として処刑されました。
    享年30歳でした。


    【松陰神社拝殿】


    松陰は有能な教育者としても有名です。
    久坂玄瑞、高杉晋作、桂小五郎、伊藤博文、山県有朋など、
    長州、日本を代表する傑物が彼に師事しました。
    そして、その弟子の多くは、松下村塾という私塾で教えを受けました。


    【松下村塾1】


    現在、その松下村塾は、松陰神社の境内に建っています。
    というより、松陰神社が松下村塾の近くに建立されました。


    【松下村塾2】

    名立たる幕末の志士がココで自己研鑽に励んでいたんですね。

    さて、松陰神社が松下村塾の近くに建立されたということは、当然、
    松陰神社の由来はそう古くはありません。

    松陰神社の前身は、松陰の死後、身内が造った土蔵の祠。
    それが、明治40年(1907年)、松下村塾門下生だった伊藤博文らの働きで
    公の神社に認定され、松陰神社として現在地に建立されたのです。


    ところで、明治に新しくできた神社は、ほとんどがある趣旨に沿って建立されています。
    その趣旨とは、旧幕府を否定し、明治新政府を肯定するというものです。
    例えば、後醍醐天皇やその配下を祭神にした神社が明治時代に多く建立されていますが、
    これも上の趣旨にのっとっていました。

    具体的にどういうことかと言うと、
    後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒し、政権を武家から天皇の元に取り戻した人物です。
    足利尊氏の反乱によって政権はまた武家に移ってしまいますが、
    一時とはいえ、後醍醐天皇による天皇親政が実現したわけです。
    明治新政府は、後醍醐天皇やその配下の業績を自らの姿と重ね合わせました。

    「天皇親政(後醍醐天皇=明治新政府)v.s武家政権(足利尊氏=江戸幕府)」

    という図式です。
    つまり、後醍醐天皇を善、足利尊氏を悪と評価することで、
    江戸幕府を倒した明治新政府を正当化しようとしたのです。
    後醍醐天皇やその忠実な配下を祭神とした神社は、
    まさにその正当化論理を背景に建立されたのです。


    じつは、松陰神社も、そうした論理で建立された典型的な神社です。
    先にも言ったように、吉田松陰の思想は天皇を中心とした国家体制を理想とし
    幕藩体制を否定するものだったので、彼の知名度もあいまって、
    祭神として祀られることになったのです。


    こうした神社の状況も、すでに100年も前のこと。
    「へ〜、そんなことがあったんだ」
    と、遠い昔の話を聞いているような気になります。

    しかし、100年前の政策が、現代の私たちの価値観に、
    いまだに深く根付いているのではないかと思います。
    例えば、この記事の冒頭で、

    「幕末に活躍した人物で、誰が好きですか?」

    と書きましたが、この一文をなんの違和感もなく読む人も多いのではないでしょうか?
    しかし、この質問は、実は非常に主観的です。
    幕末の有名人が「好き」であることを前提に話を進めているからです。

    世界で最も戦争を憎んでいるであろう日本人として、当然、
    幕末から明治初期に起こった様々な戦いを悲しい事件であったと考える人は多いでしょう。
    しかし、その割には、「薩長は多くの日本人を無駄に死に至らしめたひどいやつらだ」
    といった言説はまったく耳にしないのではないでしょうか。

    別にたくま自身が薩長を憎んでいるわけでありません。
    しかし、「誰が好き?」という質問が違和感なく聞こえてしまうほど、
    薩長の評価は善に偏っているように思うのです。


    なぜ明治政府の批判はほとんどなされないのか?
    個人的には、神社の建立などを通じて明治新政府を正当化した論理が、
    無意識に私たちの中に受け継がれてきているような気がしてなりません。

    受け継がれているのは良いことなのか悪いことなのか?

    明治から続いてきた「日本」という国の一員として、今を生きる日本人として、
    悪いとばかり評価する必要もないとは思いますが、
    今の日本は、明治政府の攻撃を受けた東北の人々、
    侵略され尊厳を失ったアイヌ、琉球人、
    彼らの犠牲の上に成り立っていることを忘れてはならないと思います。

    幕末の偉人を無批判に英雄化しない。

    「日本」を知ろうとしたとき、これはとても重要な姿勢だと思います。

    【2008.09.29 Monday 18:15】 author : たくま
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    土井ヶ浜遺跡 人が人を見るとき

    山口県西部の下関市豊北町、その海にほど近い砂丘上に土井ヶ浜遺跡はあります。
    この遺跡に何が眠っていたかというと、数百人に上る“人”です。
    そう、土井ヶ浜遺跡は、弥生時代に営まれた集団墓地なのです。

    これまで、11次にわたる発掘調査で、300体余のほぼ完全な弥生人骨が確認されたそうです。
    「300体余」と言われても、それが多いのか少ないのかピンとこない方もいらっしゃるかも知れませんが、はっきり言ってめちゃくちゃ多いです。
    弥生時代の人骨が残っていること自体がすごいです。

    発見された弥生人骨の総数を全国的にみたとき、実は、
    その9割は山口県西部と九州に集中しています。
    これは、その他の地域に弥生人がいなかったという訳ではなく、
    乾燥した砂丘や砂に混じった貝粉などのおかげで
    九州・山口西部の人骨の保存状態が非常によかったことによります。

    一般常識とも言える面長な弥生人の形質的特徴は、実は、直接的にはこの一部の地域の骨を
    情報源にしているだけだと考えると、なんだか不思議な気もします。


    さて、現在遺跡には、土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアムなるものが建っています。


    【土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム】


    このミュージアム前の原っぱ一帯は遺跡であり、その一角に、
    弥生時代の遺構を保護しつつ見学できるようにするための覆屋が設けられています。
    遺跡の景観を守るために、屋根の上には砂をかぶせてあります。


    【覆屋】


    この覆屋の中の遺構(墓)に、弥生人骨のレプリカが発見当初の形で安置されています。
    かなりリアルです。


    【覆屋内部】


    さて、土井ヶ浜遺跡の大きな特徴のひとつは、その葬法のバラエティ。
    弥生時代の人々がいろんな葬られ方をしていました。


    【8ヶ月の胎児と共に葬られた女性】



    【胎児】



    【再葬された人たち】


    再葬とは、一度遺体を葬り、白骨化して後、再び葬り直すことです。
    一度葬ったきりだと骨は頭から足までつながった状態ででてきますが、
    頭だけ集められているこれらは、意図的に再葬されたことを物語っています。


    【並んで葬られた人たち】



    【石を並べて造った箱型石棺に葬られた人】



    【生前に抜歯をしていた人】


    これらの人たちはほんの一部。
    他にも、多くの人たちが、様々な方法で葬られてたようです。


    ところで、みなさんはこれらの人骨を見てどのように感じるでしょうか?
    おそらく「骨なんて見るだけで怖い」という人も多いと思います。

    しかし、もしもその骨が不特定な人のものではなく、かなり身近な肉親のものであったならばどうでしょう?
    きっと、「怖い」とはまったく別の感情がわきおこってくることでしょう。

    肉親のものであろうと見知らぬ人のものであろうと、骨は骨。
    特別な違いがあるはずはありません。
    なのに、それを見たときに抱く感情の違いはなにゆえ生じるのでしょうか?


    ひとつ言えるのは、骨を見たときの感想は、その人の主観にゆだねられるということです。
    骨を骨とみるのか、命のあった誰かと見るのか。

    人骨が元人間であったことはまちがいありません。
    しかし、骨という“物”に人間を見出せるかどうかは、みる人の考え次第だと思うのです。

    おそらく、人骨の研究は、ひとつひとつの骨に“個人”を見出そうとするのが前提になっているのだと思います。
    また、お墓の研究は、骨になった人だけでなく、その人を葬った人々の想いを読みとろうということなのでしょう。

    そう考えると、胎児と共に葬られた女性、並び埋められた人たち、箱式石棺に葬られた人。
    まるで亡くなった人とそれを葬った人たちの息吹が聞こえるようではありませんか。


    さて、こうした視点は、きっと骨に対してだけではないんでしょうね。
    生きている人間に対しても、同じようなことが言えるんだと思います。
    骨を“物”と思うように、個人の存在を軽視すれば、そこに差別が生まれます。
    逆に、過大に評価すれば、ひとりの人間を神にさえ思ってしまう。

    自分にとって周りの人や社会はどういう存在なのか?
    それを知るには、自分自身がどのような主観をもって周りを見ているのかを知る必要があります。
    なにごともまずは自己分析から始まる。
    個人的にはそう思っています。

    【2008.09.24 Wednesday 17:27】 author : たくま
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    動物虐待!?
    先日、仕事の関係で、発掘現場となる山を視察に行ったときの話。

    ふと森の中に目をやると、一本の木の枝にビニール袋が吊るされている。
    なんの気なしに近寄ってみると、半透明のその袋の中には、4本足の動物が透けているではないか!

    「うげ〜!なんじゃこりゃ〜!?」

    袋に入れられたネコらしき動物はぴくりとも動かない。
    恐らく、死んでからここに放棄されたのだろう。

    ところが、動転するたくまをよそに、沖縄人のおばさんが、
    驚くべき言葉を口にした。

    「あ〜、なつかしい」


    な、な、な、なつかしいいいい〜!!?(--;

    一瞬聞きまちがいかとも思ったが、おばさんの、ネコの死骸入りビニール袋を見つめる目は、確かに一種の親しみをたたえていた。

    た「な、なつかしいんですか?(--;」

    おば「昔は沖縄のいろんなところで見られたよ」

    た「な、なんのために?」

    おば「死んだ後、ネコマターにならないためさ」

    おばさんの話によると、沖縄には、ネコがネコマターという妖怪(?)にならないように、死後木に吊るす風習があったらしい。

    おば「普通はクビをくくって吊るすんだよ」

    た「そうなんですか?」

    おば「股が裂けないように、足もくくってたさぁ」

    た「ナ、ナルホド。でも、このネコは袋に入れられてますが?」

    おば「クビをくくるのがかわいそうだったんじゃない。優しい飼い主だね」


    とんでもない動物虐待の現場をみてしまったと思ったら、まさか、
    最終的に優しい飼い主像に行き着くとは(--;
    文化・風習、価値観ってのは、時代と共に移り変わるということを再確認する出来事でした。
    【2008.09.15 Monday 19:56】 author : たくま
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